迎合的な宗教裁判

裁判官2名がキリスト教の教会の長老

以上に述べたとおり、韓国の裁判所が下した判決が疑わしい理由はあまりにも多い。証拠は告訴人らの証言しかなく、その証言は多くの客観証拠と決定的に矛盾し、かつ告訴人の1名は証言を覆し、「性的暴行はなかった」とまで供述したのである。告訴人らの証言は、証言の信用性の認定について客観証拠との整合性を重視し、証言の変遷の理由についても厳密な吟味を求められる近代の刑事裁判の実務に耐え得るものとは考え難い。それにもかかわらず、裁判所は、なぜこのような刑事裁判実務の常識に反し、鄭明析牧師およびキリスト教福音宣教会の信者たちの証言よりも告訴人たちの証言の方が信用できる、としたのだろうか。

最初にのべたように、鄭明析牧師がキリスト教福音宣教会(摂理)を創始して以来、キリスト教は、鄭明析牧師とキリスト教福音宣教会(摂理)を「異端」と認定し、さまざまな反対と批判を繰り返してきた。キリスト教の一般の信者であっても、そのような事情は知られていた。

鄭明析牧師に対する刑事事件を審理したソウル高等裁判所の裁判長と右陪席裁判官は、キリスト教信者であって、その所属する教会の長老(教会内の重職の1つ)を務めていた。彼らが果たして、鄭明析牧師に対する先入観や前提知識を一切有することなく、刑事裁判手続を進行することができたであろうか。韓国の裁判制度においても「忌避」制度は設けられている。「忌避」制度とは、一般に「裁判手続の公正さを失わせるおそれのある者を裁判手続に関する職務執行から排除する」仕組みをいう。彼らは、裁判手続の公正さを失わせるに十分な利害関係を有していたと言わざるを得ない。本来であれば、忌避されるべき者たちであり、仮に忌避申立がなかったとしても、裁判手続に関与すべきではない者たちであった。

結果的に、鄭明析牧師は、キリスト教の長老たちにより審理され、前述のとおり、客観的に相容れない証言を証拠として、懲役10年の刑を宣告されることになった。2000年前、イエス・キリストは何ら罪を犯していないにもかかわらず、宗教的憎悪により十字架につけられた。投獄された鄭明析牧師の裁判も、今また、増幅した宗教感情が大きな引き金となり、罪のない人を十字架に駆り立てたと言わざるを得ない。

最近起された幾多の告訴告発がすべて「嫌疑なし」で終結した今、10年という重刑を下したこの裁判のありかたそのものが再び見直されなくてはならない。

→「日本における反対活動の実態」